大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

大阪高等裁判所 昭和50年(う)126号 判決

被告人 麻田栄司

主文

本件控訴を棄却する。

理由

本件控訴の趣意は、近江八幡区検察庁検察官事務取扱検事辻本敏彌作成の控訴趣意書記載のとおりであり、これに対する答弁は、弁護人柴田耕次作成の答弁書記載のとおりであるから、これらを引用する。

論旨は、要するに、原判決は「被告人は自動車運転の業務に従事しているものであるが、昭和四八年八月二三日午後三時五〇分ころ普通貨物自動車(最大積載量四・五トン、車幅二・一七メートル、車長七・二七メートル)を運転し、国道八号線(道路幅員一〇・七メートル)を大津市方向から彦根市方向に向つて時速約三〇キロメートルで進行して近江八幡市東川町地先の信号機が設置された交差点に差しかかり、信号機の表示に従つて同交差点を左折して県道八木東横関線(道路幅員六・四メートル)を八木町方面に向かつて進行しようとしたが、自車の車長が長いので左折にあたり道路交通法第三四条第一項所定の方法をとることが困難であつたところから、ハンドルを右に切り自車を道路中央に寄らせ大まわりしようとしたのであるが、左折の態勢に入つたとき自車の四三・二メートル後方の道路左端を平河昇(当時六三年)が原動機付自転車を運転して追従してくるのを認め、順次速度を減じながら五〇メートル進行した後ハンドルを左に切ろうとしたとき、同車は既に二一・八メートル左後方に迫つているのを認めたのであるが、このような場合、自動車運転者としては左折にあたり、あらかじめ道路の左側端に寄つていなかつたため自車と道路左端との間に約三メートルの間隔があいており、右平河がそのまま進行をつづければ自車と接触するおそれがあつたのであるから、同人の進路、速度を見極め、自車の左折によつて同人をしてその速度または方向を急に変更させることがないことを確認し、自車との接触の危険のないことを確めて後、左折を開始し、事故の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務があるのに、不注意にも右原動機付自転車の速度は自車より早く、そのまま左折した場合、原動機付自転車の進路を妨げ同車をして速度または進路を急に変更するの止むなきに至らしめ接触のおそれがあることを看過して、同人において避譲するものと軽信して同車の進路、速度を見極めることなく漫然時速約二〇キロメートルに減速して左折進行してその進路を妨げた過失により、自車左側部を右原動機付自転車に接触させて同人を車もろとも路上に転倒させ、よつて同人に対して頭蓋骨粉砕骨折等の傷害を負わせて即死させたものである。」との本件公訴事実に関し、事故の状況自体についてこれとほぼ同様の事実関係を認めながら、平河車は被告人車の左折を予測し、接触を避ける措置に出る時間的距離的な余裕がある状況であり、被告人が左折に際し平河車の速度または方向を急に変更させることがないものと判断したのは無理からぬところであるとして被告人に無罪を言渡したのであるが、当時の両車両の速度、接触地点までの距離からすると、被告人車が交差点の手前約八メートルで左折のため左側へ寄りはじめたとき、平河車は被告人車の左後方わずか数メートルの位置にいたと認めるべきであり、平河車には、左折する被告人車との接触を避ける措置に出る余裕は全くなかつたのである。もし、当時平河車が原判示のように被告人車の後方二一メートルにいたとしても、被告人は、交差点手前六〇メートルで後方四三メートルにいた平河車が、交差点手前八メートルでは後方二一メートルに迫つているのを認めたのであるから、同車が自車より速度が早く、自車の左側を追抜く可能性のあることを認識しえたはずであり、被告人は、左折合図をしたものの、その方向指示器は見えにくく、被告人車がその直前大回りして左折するため進路をやや右に変更したことなどからすると、平河において被告人車の左折を予測できたとはいえない。被告人車が左側へ寄りはじめた当時の平河車の時速は二八・三キロメートルと考えられるが、その制動距離を考慮すると、原判示のように被告人車が進路を左に変更した際平河車がその左後方二一メートル(車間距離としては約一四メートル)にいたとしても、平河車には被告人車との接触を避ける時間的、距離的余裕はないのである。原判決はこれらの点につき審理不尽の結果、客観的事実と甚だしく異なる被告人の供述をたやすく措信し、事実を誤認したものであり、道路交通法二六条の二の二項の規定および現在の交通の実情のもとでは、被告人は後進車である平河車に進路を譲る注意義務があるのにかかわらず、これを否定し、また本件左折に際して後進車の速度を確認する注意義務を考慮していない点で刑法二一一条前段の解釈適用を誤つたものであり、これらの誤りが判決に影響を及ぼすことは明らかであるというのである。

所論にかんがみ記録を精査し、当審における事実取調の結果をも参酌して案ずるに、交差点で左折しようとする車両の運転者は、交差点手前で左折の合図をしたのち、できる限り車道左側端に寄つて左折の態勢に入つた場合には、その時点において自車の左後方に後進車があつても、同車が自車を適法に追抜くことが許されない状況にあるときは、同車の運転者において追突等の危険防止のため適切な措置をとり、左折を妨害しないものと信頼して左折することができるものと解せられる。そして、道路交通法二六条の二の二項、三四条五項の趣旨から考え、後進車は、すでに左折合図をしている先行車との間に適当な距離があつて、左折により自車の速度または方向を急に変更させられることがないときは、あえてこれを追抜きその左折を妨げることは許されないと解されるから、この場合に先行車が左折したとしても運転者としての注意義務に違反するところはないというべきである。

本件における事実関係を見るのに、事故の客観的な状況に関する原判決の理由の二、三の1ないし3の認定事実は、平河車の時速を約二〇キロメートルとしている点を除いて、当裁判所も証拠上これを是認することができる(なお、三の2の「交差点手前約八メートルの地点」とは「車体前端が交差点西側の横断歩道の手前約八メートルに達した地点」その他同項中「交差点手前」とは「西側横断歩道の手前」、また、「左後方約二一メートル」とは「被告人車の運転席の位置の左後方約二一メートル」の趣旨と解する)。そして、右のほか、被告人の捜査官に対する供述調書、原審、当審の被告人の供述、原審証人西政雄の供述を総合してみると、本件交差点では、折から東行の車両の交通が停滞し、自動車は交差点にさしかかる前からすでに減速を余儀なくされて列をなし、一方、原動機付自転車である平河車は、道路左側の路側帯付近の前方には停滞車両がないため、交差点に至るまで自動車の列の側方を追抜き進行することができる状況であつたこと、被告人車は、原判示のように時速約三〇キロメートルで本件交差点に近付いたのち減速したのであるが、前示交通停滞のため可成り速度が落ち、横断歩道の約八メートル手前で左折のため車体を左へ寄せはじめた時点では、時速一〇キロメートル余りの速度となつていた可能性がある(原審証人西政雄はこの停滞の列中、被告人車の約五〇メートル後方にあつて、同証人自身時速約五キロメートル位で進行していたと述べる)こと、一方、平河車は原判示のとおり交差点の約三〇〇メートル手前では時速約二〇キロメートルで進行していたが、被告人が左折開始の時点で見た際には、それより加速していたとしても、時速四〇あるいは五〇キロメートルというような原動機付自転車にとつての高速度ではなく、ほぼ法定の制限時速三〇キロメートル程度で進行していたこと、被告人も、平河車が追付いてきていることは認識していたことを認めることができる(所論は被告人が二回にわたり後方確認したときの距離関係の変化から、平河車の時速を二八・三キロメートルと算出しているが、右算出の方法自体は必ずしも首肯しえない。)被告人が左折を開始した時点において平河車が被告人車の運転席の左後方数メートル、被告人車の左脇にあたる位置にいたものとする所論の根拠は、その時点後、衝突までの距離を、被告人車が原判示の時速二〇キロメートル、平河車が所論の二八・三キロメートルで速度を変えずに進行したものとして計算した結果であるが、被告人車の時速自体前示のとおり二〇キロメートルには達しないものであつた可能性があるうえ、直進する平河車がその後加速しなかつたとも断定できないのであるから、右計算の結果を重視することは相当でないといわざるをえず、被告人が捜査の当時以来一貫して、平河車は後方二一・八メートルの位置にいたと述べ、反証はないことに照らすと、同車の位置についてこれと全く異なる認定をすることも困難であるというべきである(本件公訴事実自体、当時平河車は後方二一・八メートルにいたものとしている。)これよりさき、被告人車は、交差点西側横断歩道の約四五メートル手前から左折の方向指示器を点滅させており、当時平河車は被告人車の後方約二一ないし四三メートルにいたとみられるのであるが、この指示器が、特に見えにくい構造であつたとはいえず、前示交通停滞のあつたことを参酌しても、平河車は道路左側端沿いに進行しているのであるから、交差点に接近する車両の運転者として通常の注意により左折合図を発見できたものと認められる。なお、被告人車が左折合図後七〇センチ程度逆に右へ寄つたことを考慮しても、平河車において、被告人車の左折合図にもかかわらずその左折を予測できない状況にあつたものとは認めがたい。

以上の事実関係によつてみると、被告人が本件交差点西側横断歩道の手前約四五メートルから左折の合図をしたのち同横断歩道の手前約八メートルで左折を開始した時点において、左後方から追随してくる平河車との間の距離は約一四メートル、当時の平河車の速度は時速約三〇キロメートル程度であるから、経験則上、平河車の速度に照らして、必ずしも左折により同車の速度または方向が急に変更させられる関係にあつたとはいえない。そうすると、すでに左折の合図をしている被告人が、平河車において危険防止のため適切な措置をとるものと考えて左折したことについて業務上の注意義務違反があると断定することはできない。所論は被告人には平河車の速度を確認する注意義務があるのに、原判決はこれを考慮していないというけれども、被告人の原審、当審の供述等を総合すれば、被告人が平河車の進路のほか、その時速はほぼ三〇キロメートル程度であることを認識していたことが推認でき、この点の注意義務違反があるということもできない。なお所論は、被告人が左折に際し徐行する義務およびできる限り道路の左側端に寄る義務を怠つた過失があるともいうのであるが、右はいずれも公訴事実に記載されていない点であるばかりでなく、前者は本件死亡の結果と直接の因果関係が認められず、後者については、進入道路の幅員が片側約三・二メートル、被告人車の長さが七・二七メートルであり、東行道路には路側帯があつて、その幅員を除けば被告人車は左側に約一・五メートル余りを残していたに過ぎないことなどを考えると、その義務を怠つたとも断定できない。

以上のとおりであるから、本件については原判決の事実認定ないし過失に関する判断を覆えして有罪を認めるべき積極的な証拠があるとはいえず、公訴事実につき犯罪の証明がないとした原判決に審理不尽、判決に影響を及ぼすことの明らかな事実誤認あるいは法令適用の誤があるということはできない。論旨は理由がない。

よつて、刑事訴訟法三九六条により主文のとおり判決する。

(裁判官 藤原啓一郎 野間禮二 加藤光康)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例